第二次世界大戦と国際連合

1939年3月(独)ヒトラーチェコスロバキアに傀儡政権を立て「ベーメン・メーレン保護領」とした。4月(伊)ムッソリーニバルカン半島アルバニアに侵攻。8月「独ソ不可侵条約」締結、9月(独)「ポーランド侵攻」これに対しポーランドの同盟国、英仏が独に宣戦布告し「第二次世界大戦」に突入した。(ソ連ポーランド東部に侵攻。独ソはポーランド、バルト3国を分割・占領した。

5月(日・ソ)「ノモンハン事件大日本帝国陸軍を後ろ盾とする満州国と、ソ連赤軍を後ろ盾とするモンゴル軍が国境を巡り激突、日本軍が敗北し、日本は南進論へ方向を変える。

(英)アラン・チューニング(1912年~54年)9月、独の暗号機「エニグマ」を解読。戦後は電子計算機、人工知能(AI)の先駆的な業績を残す。

9月(ポーランド)ヴワディスワフ・ラチュキュヴィチはパリで「ポーランド亡命政府」を組織した。40年4月頃「カティンの森事件スターリンの指示で亡命政府側の捕虜2万2千人が射殺され埋められた。

11月(フィンランド・露)「冬戦争」ソ連侵攻、フィンランドは多くの犠牲を出しながらも独立を守る。

1940年1月(日・米)日本は仏領インドシナへの進軍を伝達すると、米は「日米通商就航条約」を破棄し禁輸に踏み切った。

3月(中国)汪兆銘蒋介石と対立し、南京を拠点に親日政権「南京国民政府」を樹立した。

5月(独・仏)「ダンケルクの戦い」独軍が仏に侵攻、6月、パリに無血入城を果たし仏第三共和政が崩壊した。仏はフィリップ・ペダン元帥を首班とするヴィシー政権が成立し「独仏休戦協定」が結ばれた。シャルル・ド・ゴールは 英軍撤退に合わせロンドンに亡命し「自由フランス」を結成した。

6月(バルト3国)ソ連から友好的な政権樹立を求められ受諾、ソ連邦構成共和国の一部となった。7月、杉原千畝リトアニア在住カナウス日本領事官領事)は外務省の訓令に反し、ドイツ、ポーランドから逃れて来たユダヤ人8千人~1万人にビザを発給した。避難民は露、日本、上海を経由しアメリカへ逃れた。

8月(日・中)山西省、河北省で八路軍が日本軍を奇襲、日本軍は「殲滅作戦」を開始した。「731部隊」を編制し生物兵器を開発、実戦使用した。捕虜の多くが人体実験に晒された。

9月、「日独伊三国同盟」締結。日本軍は仏領インドシナに進駐(仏印進駐)し、ハノイを占領、日米関係の決定的な亀裂をもたらした。

11月(タイ)独が仏を占領すると「タイ・フランス領インドシナ紛争」を仕掛け、41年の「東京条約」で仏領インドシナの旧タイ領地返還を実現した。

12月(シリア)ザキー・アル=アルスーズィー(アラウィー派アラブ民族主義者)はダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス党」を結成。過去のイスラム国家の栄光を取り戻すとして、汎アラブ主義、社会主義の元で近代化を目指した。欧米やイスラム原理主義者と対立する。

1941年4月(日・ソ)「日ソ中立条約」を締結し領土保全と不可侵を約束する。

4月「ユーゴスラビア侵攻」独伊軍がベオグラードに侵攻、ユーゴスラビアは解体され独、伊、ハンガリーブルガリアにより分割統治された。セルビアは独の傀儡政権「セルビア救国政府」が建てられ、クロアチアはアンテ・パヴェリッチ率いる民族主義団体ウスタシャがザグレブで蜂起、「クロアチア独立国」を建国した。パヴェリッチはヒトラーと軍事同盟を結びセルビア人70万人を虐殺した。ヨシップ・ブロズ・チトー(共産党員)はロンドンに亡命政権を打ち立て、パルチザンを組織して、独伊に対し抵抗運動を続けた。

6月(独)「バルバロッサ作戦」、ヒトラー独ソ不可侵条約を破棄しソ連に侵攻。7月、英ソ軍事同盟を締結、10月、独軍はモスクワを包囲したが、42年1月からソ連軍の反撃により膠着状態が続く。

7月(日・米)日本軍が南部仏印へ進駐開始、米国務長官コーデル・ハルと外交交渉が続く。

8月(米・英)「大西洋憲章」米ルーズベルト大統領と英首相ウィンストン・チャーチルが反ファシズム路線を確認、41年3月、米議会は「武器貸与法」を成立させた。

12月(日・米)日本軍は米との外交交渉が決裂し「真珠湾攻撃」を決行、アメリカが参戦し太平洋戦争に突入した。

12月(ミャンマー・日)アウンサン率いる「ビルマ独立義勇軍」結成。日本軍に協力し英軍と戦った。

1942年1月「連合国共同宣言」米英ソ中を中心に亡命政府を含め47か国が署名し、連合国として正式に結成された。蒋介石は中国戦区の最高司令官となった。

1月(独)「ワンゼー会議」ユダヤ人に対する最終的解決方法として移送と殺害を組織化、アウシュヴィッツ等6つの強制収容所で約600万人のユダヤ人が毒ガス等で虐殺された。

2月(日本)シンガポール攻略、オランダ領インド(インドネシア)侵攻、民族主義運動家スカルノらは、日本軍に協力し英からの独立運動を展開した。3月、日本軍がフィリピンに上陸、米ダグラス・マッカーサー(軍人)はフィリピンを脱出しオーストラリアへ避難した。5月、日本軍がビルマ制圧、インドに迫る。

6月(日・米)「ミッドウェー海戦日本海軍はミッドウェー島の米空母部隊殲滅を目的として攻撃したが失敗、日本軍の暗号が解読され、待ち伏せ攻撃を受ける。これにより戦局の主導権は米側に移った。

8月(英・印)英がインド兵の徴兵を要求、インド国民会議派のガンディー、ネルー等は独立を求め「クイット・インディア(インドを出ていけ)」と叫び、反英運動を展開したが鎮圧される。

8月(独・ソ)「スターリングラードの戦い」において補給を絶たれたドイツ軍が降伏、これよりドイツ軍の撤退が始まる。

10月(米)「マンハッタン計画ルーズベルト大統領は核兵器開発プロジェクトを承認した。43年(米)ロバート・オッペンハイマーユダヤ人)はロスアラモス国立研究所の所長に就任した。

1943年2月(日・米)「ガタルカナル島の戦い」日本海軍の前進航空基地建設計画を阻止する為、米軍が上陸作戦を実行し日本軍が撤退する。

5月(伊)チュニジアにいた独伊軍は、ボン岬に上陸した米英軍に包囲され降伏、北アフリカを撤退した。ムッソリーニは戦争指導責任を追及され逮捕、投獄されたが、ヒトラーの指示で独軍により救出され、伊は内戦に突入した。9月、ピエトロ・パドリオ(貴族、軍人)率いる伊新政権が成立し連合国に降伏した。

8月(ミャンマー独立運動家バー・モウ(モン族)は国家代表に就任し独立を宣言、「ビルマ国」(首都=ラングーン)を建国した。

10月「カイロ会談」ルーズベルトチャーチル蒋介石は、カイロで日本とアジアの戦後処理について話し合った。

10月(印)チャンドラボーズ、日本軍政下のシンガポールで「自由インド仮政府」を樹立、インド独立を目指し日本軍に協力した。

10月(フィリピン)ホセ・ラウレル大統領は日本の支援を得て米から独立「フィリピン第二共和国」(首都=マニラ)を建国した。

11月(日本)東京で「大東亜会議」開催。汪兆銘政権、満州国、フィリピン、ビルマ国、タイ、印はチャンドラボーズが参加し「大東亜の解放」を宣言、日本による独立を付与した。但しマラヤ、インドネシアは日本領とされる。

11月「テヘラン会談」ルーズベルトチャーチルスターリンテヘランで、ドイツの戦後処理について話し合う。

11月(レバノン)連合国が地中海東岸を制圧後、レバノンが独立を宣言、これを英が承認し「レバノン共和国」(首都=ベイルート)が成立した。宗教的、民族的多様性を持ち、スンナ派シーア派、マロン派(典礼カトリック教会)がそれぞれ3割を占め拮抗している。

1944年3月(日・印)「インパール作戦」日本軍は英領インド帝国北部のインパール攻略を目指すが、「コヒマの戦い」で英軍の反撃に会い撤退、撤退中に多くの犠牲者を出し帰路は「白骨街道」と呼ばれた。

6月(アイスランド)ドイツ占領を経て、連合軍が侵攻、「アイスランド共和国」(首都=レイキャヴィーク)として完全独立を果たす。

6月(仏)シャルル・ド・ゴールは自由フランスを率い、チュニジアで「フランス共和国臨時政府」を樹立した。

6月、「ノルマンディー上陸作戦」連合国軍50万人が北フランスのノルマンディーに上陸。続くパリまでのオーバーロード作戦で200万人の兵が投入され、8月、パリを解放する。

7月「ブレトン・ウッズ協定」連合国45か国が参加、「国際通貨基金IMF)」を設立し、アメリカドルを基軸通貨とする固定為替相場制を決定、「1オンス35USドル」(金本位制)と定められた。

7月(ポーランドソ連の傀儡政権「ルブリン政権」樹立。亡命政府もソ連に協力する。

8月(ミャンマー)アウンサン率いるビルマ軍は日本の待遇に懐疑的となり、連合国側に寝返り抗日運動を展開した。

9月(フィリピン)米軍上陸、日本軍政下にあったラウレル政権は、米英に対し宣戦布告するが占領される。

9月(独)「V2ロケット」実戦配備。英仏白に向けて使用される。独ヴェルナー・フォン・ブラウンが研究を主導。45年5月、米に亡命し、米のロケット開発を主導する。

11月(東トルキスタン)アリハーン・トラ(ウズベク人・独立運動家)等はソ連の支援を受け、イリ渓谷グルジャで蜂起し「第二次東トルキスタン共和国」を建国した。

1945年2月「ヤルタ会談ルーズベルト大統領、スターリン書記長、チャーチル首相の間で、ドイツの戦後処理、ソ連対日参戦と国際連合設立について会談。また、ポーランドの国境は英外相ジョージ・カーゾン卿が提唱したカーゾン線を国境と定め、「ポーランド人民共和国」が成立した。

3月(越)「明号作戦」仏ヴィシー政権崩壊後、日本軍が仏領インドシナ政府を解体、「ベトナム帝国」「カンボジア王国」「ラオス王国」が独立を宣言した。

3月「アラブ連盟」設立。「アレクサンドリア議定書」が採択され、本部をカイロに置くことが決定された。英外相アンソニー・イーデンは41年より、アラブ諸国が枢軸国側につくことを避けるため提唱していた。

4月28日(伊)ムッソリーニコモ湖パルチザンに捕らえられ処刑、ミラノのロレート広場で遺体を吊るされる。

30日(独)ヒトラーが地下壕で自殺。5月8日、独フレンスブルク政府(カール・デーニッツ海軍元帥)が連合国に無条件降伏。6月5日の「ベルリン宣言」において独は米英仏ソの4ヵ国による分割統治が決定した。7月、墺も同様に4ヵ国により分割統治される。

4月~6月「サンフランシスコ会議」51ヶ国が署名し「国際連合憲章」が採択される。

7月(米)ニューメキシコ州で人類初の核実験「トリニティ実験」に成功した。

7月「ポツダム会談」英クレメント・アトリー首相(チャーチルは総選挙で敗北)、米ハリー・S・トルーマンルーズベルト急死)、露スターリンが会談、ドイツの戦後分割統治や日本への降伏勧告が話し合われる。

8月6日、広島原爆投下、8日(ソ連)対日宣戦布告。9日長崎原爆投下、10日(日本)御前会議で無条件降伏を閣議決定。14日、日本政府がポツダム宣言の受諾を通知。トルーマン大統領はダグラス・マッカーサー連合国最高司令官に任命し「連合国最高司令官総司令部(GHQ)が発足した。

8月14日(中・ソ)「中ソ友好同盟条約」中華民国ソ連の間で締結される。この条約でモンゴルの独立は認められたが、東トルキスタン内モンゴル・新疆)の独立は叶わなかった。16日、米ペンタゴンが「日本分割統治案」承認。スターリン北方領土ヤルタ会談で承認される)以外に北海道北東部の占領を要求した。これをトルーマンが拒否し、分割統治案は破棄された。ソ連は米の原爆の圧力に屈する。

9月2日、日本は降伏文書に調印。5日、ソ連が千島列島を占領し実効支配が今に続く。 

第二次世界大戦の戦死者5000万~8000万人、ホロコーストの犠牲者510万人。日本250万人、独430万~550万人、ソ連870万人、英38万人、米41万人。

1945年8月17日(インドネシアスカルノは「インドネシア共和国」(首都=ジャカルタ)の独立を宣言。再植民地化を狙うオランダは独立を否定し「インドネシア独立戦争」が始まる。戦況はオランダ優位に進むが、47年、国連安全保障理事会が独立を支持、次第に国際世論の圧力に屈し49年、「ハーグ円卓会議」で独立を承認した。スカルノが大統領に就任した。

8月(中国)米パトリック・ハーレー大使が仲介し、毛沢東蒋介石が会談、10月、「双十協定」を結び統一政府の樹立を約束する。米は中国の共産化阻止を目的とし国民党への軍事支援を強化した。

9月(越)ベトミン(ベトナム独立同盟会、41年5月設立)がベトナム帝国(日本の傀儡政権)の皇帝バオ・ダイを退位させ「ベトナム民主共和国」(首都=ハノイ)が成立した。

10月(台湾)蒋介石率いる中華民国軍が上陸、「光復」(日本からの解放)式典が行われ「台湾行政公所」が設置された。要職を外省人(大陸人)が独占した。

10月(モンゴル)ソ連対日参戦によりモンゴルは内モンゴルに進駐したが、中華民国外モンゴル独立公民投票と引き換えにモンゴル軍の撤退を要求、チョイバルサン首相がこれに応じ、中国は外モンゴルの独立を承認した。

10月(仏)シャルル・ド・ゴールは臨時政府主席に就任したが、政党間の対立に嫌気がさし46年1月に辞任。46年10月、国民投票により新憲法草案が承認され、「第四共和政」が成立した。議院内閣制を採り、大統領より議会に権限が集中した。

10月、「国際連合」設立。米英仏ソ中の五か国が拒否権を有する常任理事国(五大国一致の原則)が決定された。

11月(ユーゴスラビア)ヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンユーゴスラビアの再統一を果たし「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(首都=ベオグラード)が成立した。マケドニアセルビアボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアスロベニアモンテネグロの六つの共和国で構成され、各共和国の自治を認めた。

1946年1月(イラン)クルド人カズィー・ムハンマドソ連の支援を得て独立を宣言「マハーバード共和国」(首都=マハーバード)を建国。4月、パフラヴィー朝モハンマド・レザー・シャーは北部油田の共同出資をソ連に持ち掛け、ソ連軍を撤退させる。12月、政府はカズィー・ムハンマドを処刑し、共和国は再び崩壊した。

1月(中国)双十協定に基づき協議、一定の譲歩を確認したが、3月、国民党(蒋介石)は党大会で共産党の「民主連合政府」を拒否し国民党の指導権強化を決議、6月、蒋介石共産党に対し軍事侵攻を指示し「国共内戦」に突入した。トルーマン蒋介石を非難し軍事支援に消極的になる一方、スターリン共産党への軍事支援を強化していった。

2月(アルゼンチン)ファン・ドミンゴ・ペロン(軍人)45年10月、米寄りの政権に一時拘束されていたが、妻エバ・ペロンのラジオ演説で民衆の支持を受けて釈放された。大統領に就任し企業国営化と外資排斥を実施するが無計画な政策により、大戦中に蓄えた外貨を使い果たし55年、クーデターにより失脚する。

3月(越)仏はベトナム民主共和国の独立を拒否し、植民地権益保持の為保護国コーチシナ共和国」(首都=サイゴン)を成立させた。6月、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国のメンバーは独立を求め仏フォンテーヌブローで会談に挑むが決裂、12月「第一次インドシナ戦争」に突入した。ホー・チ・ミンは中ソ共産党の支援を受け軍の近代化を図った。

3月(米・英)世界中に張り巡らされた情報機関の相互利用を目的に「UKUSA協定」を締結した。50年に加、豪、ニュージーランドが加わり「ファイブ・アイズ」と呼ばれる。

3月「ギリシャ内戦」共産主義左派(ソ連支援)と王党派右派(米支援)の間で内戦に突入。49年、王党派が勝利したが、その後74年の第三共和制成立まで混乱状態が続く。

4月(シリア)36年より仏からの独立を求め交渉、大戦の混乱を経て「シリア共和国」(首都=ダマスカス)として仏から独立を果たす。

5月(ヨルダン)戦後、英(国際連盟委任統治領)より独立、49年アブドゥッラー1世(ハーシム家)を国王とする「ヨルダン・ハシミテ王国」(首都=アンマン)と国名を改めた。

6月(伊)王政廃止を問う国民投票が行われ、54%の賛成、46%の反対(君主制支持)により共和制に移行、「イタリア共和国」(首都=ローマ)が成立した。国王ウンベルト2世は国外追放となった。

7月(フィリピン)米は「マニラ条約」により主権を放棄し、「フィリピン共和国」(首都=マニラ)として再独立を果たした。

9月(ブルガリア)枢軸国側で参戦したブルガリアは敗戦後、王政が廃止され「ブルガリア民共和国」(首都=ソフィア)が成立した。

10月(マレーシア)英は民族間(マレー人、華人)の差別を無くし、スルターンの権限を制限、国王をジョージ6世とする「マラヤ連合」(首都=クアラルンプール)を成立させた。

46年末(イスラエル)ターミレ族の羊飼いの少年が、死海の北西にあるクムラン洞窟で偶然「死海文書」を発見した。旧約聖書聖典化作業以前の多様かつ流動的な背景が補足された。

1947年1月(ミャンマー)日本に勝利した後、英は再度ミャンマーを植民地化した。アウンサン将軍等は独立を求め活動、英首相クレメント・アリーから1年以内の独立の約束を取り付ける。7月、アウンサン将軍、政敵ウー・ソオの一味に暗殺される。黒幕は英とも言われる。48年1月、独立して「ビルマ連邦」(首都=ラングーン)が成立、ウー・ヌが初代首相となった。ビルマ共産党共産党排除の動きに反発し蜂起、同時にカレン族、カチン族はそれぞれ独立を求めカレン民族同盟、カチン独立軍を結成、「ミャンマー内戦」に発展した。

2月(台湾)「2・28事件」外省人の強盗・暴行事件が頻発する中、本省人国共内戦以前からいる中国人)の抗議デモが拡大、蒋介石は徹底的な弾圧を行い、共産党等の知識人数万人の処刑(白色テロ)を行った。

2月(パレスチナ・英)英米調査委員会はヨーロッパのユダヤ人難民10万人のパレスチナ受け入れを承認した。英は委任統治を放棄し問題の解決を国連に委託した。11月、国連はアラブ地域、ユダヤ地域、国連統治地域に3分割する「パレスチナ分割決議案」を決議、賛成33票、反対13票で採択した。この決議に反発したパレスチナ人により内戦状態となる。

3月(米)トルーマン大統領は議会の特別教書演説で、「トルーマン・ドクトリン」を発表。共産主義拡大を防ぐ為、ギリシャとトルコに資金援助を行い、ソ連との「冷戦」が始まった。6月、国務長官ジョージ・マーシャルは欧州復興計画「マーシャル・プラン」を発表、欧州16ヵ国により「欧州経済協力機構」が発足した。

6月(印・パキスタン)英領インド総督ルイス・マウントパッテンは宗教間の争いが激しくなる中、印とパキスタンの分離独立を決定、8月、ジャワハルラール・ネルー率いる「インド連邦」とジンナー率いる「パキスタン・イスラム共和国」が成立した。印東部のイスラム多数派地域は東パキスタンとして組み込まれた。カシミール地域は77%のイスラム教徒の住民がパキスタンに、王はヒンドゥー教徒で印に帰属を希望した。10月、カシミールの帰属を巡って「第一次印パ戦争」が勃発した。

7月(南太平洋)米軍による国連の信託統治領に代わり、米国の自由連合盟約を締結した「マーシャル諸島共和国」(首都=マジュロ)「ミクロネシア連邦」(首都=パリキール)「パラオ共和国」(首都=マルキョク)が独立、また、米コモンウェルス盟約を締結した「北マリアナ諸島自治連邦区」(首都=ガラパン)が独立した。

8月(マレーシア)華人に対するマレー人の反発が強まり、スルターンの権限を回復させて、イギリス連邦の一員としてトゥンアク・アブドゥル・ラーマンを初代国王とする「マラヤ連邦」(首都=クアラルンプール)が成立した。国王は選挙により選ばれる「選挙君主制」を採用した。但しシンガポール、サラワク、英領北ボルネオは英直轄統治領として残った。

9月(米)トルーマン大統領、国家安全保障に関する情報収集を目的とし、米軍とは独立した「中央情報局(CIA)」を設立した。

9月「コミンフォルム共産党労働者情報局)」ヨシフ・スターリン、ヨシップ・ブロズ・チトー等により結成され、仏伊の共産党も参加した。48年6月、スターリン自治を優先するチトーと路線対立し、ユーゴスラビアコミンフォルムから除名した。

12月(ルーマニア)45年ドイツ降伏後ソ連に併合されたが、48年12月、最後の国王ミハイ1世が廃位され王政廃止、共産党一党独裁による「ルーマニア民共和国」(首都=ブクレシュティ)が成立した。

1948年1月(印)ガンディーはムスリムに対する妥協的な言動に敵意を抱いた、ヒンドゥー民族義勇団のナトラム・ゴドセにより拳銃で暗殺された。

2月(スリランカ)英より独立し、イギリス連邦自治領として「セイロン」が成立、78年「スリランカ民主社会主義共和国」(首都=コッテ)に改称した。イギリス連邦加盟国。

5月(イスラエルダヴィド・ベン=グリオン(初代首相)が「イスラエル国」(首都=エルサレム)の独立宣言を行った。これに反発したアラブ諸国パレスチナ人を支援し「第一次中東戦争」が勃発した。

5月(南アフリカ)ダニエル・フランソワ・マラン(アフリカーナ国家主義者)、総選挙で勝利し南アフリカ連邦首相に就任。人種隔離政策(アパルトヘイト)を強力に推進する。ネルソン・マンデラ(首長の子)は反アパルトヘイト運動に身を投じた。

6月(独)「ベルリン封鎖ソ連は西ベルリンの支配を狙い物資搬入を制限、通貨改革を実施した。これに反発した米英仏も通貨改革を行い西側経済が優勢となった。ソ連は西ベルリンに入る陸路を完全に封鎖し空路のみ認めた。米英による「ベルリン大空輸作戦」が始まる。

8月(朝鮮)終戦直後、北緯38度線の北をソ連軍、南を米軍が占領した。米ソ対立の中で南部は単独で選挙を実施、「政憲憲法」を制定し李承晩を大統領とする「大韓民国」(首都=ソウル)が成立した。9月、北側は金日成主席の下で「朝鮮民主主義人民共和国」(首都=平壌)として独立した。

12月(国連)「世界人権宣言」賛成48票、反対0、棄権8(ソ連等)で採択される。

(英)ウィリアム・ヘンリー・ベヴァリッジ(経済学者)、42年『ベヴァリッジ報告書』を発表、労働党内閣はこの報告書に基づき、国民保険、年金、失業保険、児童法等を制定、「ゆりかごから墓場まで」と言われる社会保障制度を確立した。その後、インフラや自動車等の国有化を行い、60年代から70年代にかけて経済の低迷を招き「イギリス病」と言われた。

1949年1月(パレスチナ第一次中東戦争に疲弊した各国は米外交官ラルフ・バンチの仲介で停戦、休戦協定が結ばれた。中間を非武装地帯とし、エルサレム東部(嘆きの壁含む)はヨルダン、西部はイスラエルとし、ガザ地区はエジプトに編入された。

1月(ソ連・東側諸国)西側の欧州経済協力機構に対抗し、ソ連主導の元「経済相互援助会議(COMECON)」が結成された。

4月(アイルランド)大戦中、中立を貫いてきた議会は共和制国家「アイルランド共和国」(首都=ダブリン)を宣言、英国王(ジョージ6世)を君主とするイギリス連邦から完全に離脱した。

4月(欧米)ソ連との対立に対し、共同防衛体制「北大西洋条約機構NATO)」が結成された。

5月(独)ソ連が西ベルリンの封鎖を解除、米英仏はドイツ統一を諦め「ドイツ連邦共和国西ドイツ)」(首都=ボン)を建国、10月、ソ連により「ドイツ民主共和国東ドイツ)」(首都=東ベルリン)が建国された。

6月(南越)仏を宗主国とする反共国家「ベトナム国」(首都=サイゴン)が成立、バオ・ダイが元首を務める。7月(ラオス)仏支配を残し「ラオス王国」(首都=ヴィエンチャン)が成立、53年に完全な独立を果たした。

8月(ソ連カザフスタンセミパラチンスク核実験場で「核爆弾」の開発に成功。スパイ活動により米の技術を盗む。52年に英が、60年に仏が核実験に成功した。

10月(中国)国共内戦終結毛沢東は北京の天安門で「中華人民共和国」の建国を宣言。孫文夫人の宗慶齢が副主席となる。12月、蒋介石は妻の宋美齢と共に台湾に敗走、台北市中華民国の首都とし戒厳体制を導入した。米議会では「中国の喪失」論が噴出した。

1950年1月(印)「インド憲法」が成立し英支配から完全に独立、「インド共和国(又はインド)」(首都=デリー)が成立した。

2月(米)ジョセフ・マッカーシー共和党)により「赤狩り共産党員追放)」が始まる。チャップリン等多くの芸能、文化関係者が追放となった。強硬な手段に表現の自由が損なわれ、民主党エドワード・モロー等マスコミからの批判が強まり、54年に終焉となった。

6月(朝鮮)「朝鮮戦争金日成スターリンの支援を取り付け、38度線を越え韓国に侵攻した。四日後ソウルが陥落し釜山に迫る。6月、「補導連盟事件」韓国政府により南朝鮮労働党を粛清、114万人が犠牲になる。7月、国連安保理マッカーサーを司令官とする多国籍軍の派遣を決定。9月、国連軍がソウル奪回、10月、スターリンの要請により中国の義勇軍が参戦し膠着状態が続く。51年4月、トルーマンは原爆使用許可を求めるマッカーサーを解任し休戦交渉に入る。

10月(チベット)「チャムドの戦い」中国人民解放軍チベットに侵攻、チャムドを制圧した。51年4月「十七か条協定を締結」中国軍がラサに駐留し、宗教を排撃、社会主義改造、漢族の大量入植が始まった。

1951年4月(西欧)仏外相ロベール・シューマンによる「シューマン宣言」に基づき「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」が設立された。仏と西独に加え伊・蘭・白・ルクセンブルクが加盟。

6月「社会主義インターナショナル」労働者社会主義インターナショナルを前身とし、34か国の社会主義を掲げる政党(労働党社会党等)により結成される。資本主義、共産主義に対抗し、仏革命や米独立革命の精神を継承する。日本社会党参加、米中露は参加せず。62年、マルクス・レーニン主義共産主義)を放棄。